身延山三門より身延川に沿って西谷をおよそ100mほど登った左側の三叉路角に武井坊があります。
当坊は、会の戦国武将・武田信玄公の家紋(武田菱)をもって寺の紋としておりますが、これは武田家の祈願所としての性格を持っていたことに由来します。また「身延栞」という案内書には「武田信玄公、身延攻めに敗れ、感応のいちじるしきに驚き、日勢上人を請じて一寺を創る。故に坊は公の一字を用う」と紹介され、坊名の「武」一字は、武田信玄公の御名に由来します。
武田信玄晴信公と申しますと、上杉謙信と川中島で戦うこと数回、上洛を志、織田信長と雌雄を決したことで有名ですが、身延攻めの話でも知られております。
反身延山の武将でありました信玄公は、身延攻めに失敗して、日蓮聖人、七面大明神の神力の強さに驚かされ、
武井坊を建立して祈願所とされたと伝えられています。
しかし、信玄公の身延山に対する見方には異説もあり、元亀三(1572)年4月、上杉謙信との戦に際して信玄公は、
一子勝頼を出陣させましたが、子を思う信玄公は身延14世日鏡上人より贈られた紺紙金泥(こんしきんでい)の法華経を身につけさせて出陣させました。川中島で謙信の率いる一万騎の軍勢と相対しましたが、戦を交えず敵の大群は逃げてしまいました。
これは法華経の神仏のご加護であるとして、武井坊を建立して祈願所とされたといわれるものです。
相反する見方ですが、いずれにしても、天下泰平の宿願のために武井坊を建立し祈願所とされたことに違いはありません。
以来、武井坊は武田家の祈願所という歴史を持つ寺として隆盛し、現在に至っております。
また、武井坊には毘沙門天王がお祀りされていますが、この毘沙門天王は世界の中心にそびえるという須弥山(しゅみせん)の中腹にあって、四天王の主として夜叉や羅刹を率いて北方を守護する神であります。常に仏の道場を守って法を聞く事から多聞天とも称され、法華経においてもこの経を受持するものを擁護すると誓われております。室町時代には七福神の一つに数えられ、護法と施福の神として民衆ににも広く崇拝されるようになりました。
武井坊に勧請される「開運毘沙門天王」は像高約30㎝、お顔立ちは気高く、右手に宝棒、左手に宝塔を持つお姿は威厳に満ちており、毎年2月1日に執り行われます毘沙門天王の大祭には、身延町をはじめ県内外からその福徳にあずかろうと多数の信者さんたちが集まり盛況を極めております。